インドをざっくり総括してみた。

現在、Bangkok, Thailandにいます!!

世界一周10カ国目!!

旅のルート:Philippines→Thailand→Laos→Vietnam→Cambodia→Thailand

→India→Sri Lanka→India→Bhutan→India→Nepal→India→Bangladesh

→India→Thailand

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南アジアを旅して3ヶ月。その大半をインドで過ごした。

 

世界観が変わったか?と聞かれれば変わっていないと答える。

正直、世界観がガラリと変わる様な体験というのはなかなか出来ないだろうと思っている。

別に、それを求めて旅をしている訳でもない。

 

ただ、気付きというものはあった。

心に余裕のある時にはある程度物事を俯瞰的・多面的に見る事が出来る。

他方、余裕が無くなると視野が狭くなり物事を一面的に捉えがちになる。

 

南アジアを旅していた時の自分が正にそうであった。

インドの評判は昔から何度となく聞いていたが、実際にインドへ来てみるとそれはとても新鮮で刺激的なものであった。

しかし次第にインドに疲れてくる。心に余裕が無くなるとインドで起こるあらゆる事にイライラしてしまう。

汚い・臭い・ウザい・うるさい。

 

インド一周などもう辞めて、早々に次の国へ移動しようかと考えた時期もあった。

あの時は間違いなくインドが嫌いだった。

なんだこの国は。俺に話しかけるなこのクソインド人。

言葉は悪いが、心の中では常にそんな事を思っていた。

 

それでも、インドを嫌いなまま終わらせてしまうのは嫌だった。

僕の旅のテーマは「気ままな旅」。

嫌いだからじゃあ次に行こうという事も可能だった。でもそうやって楽な方に進んでしまう事が嫌だった。

もう少しインドと向き合ってみようと思い直し、旅を続けた。

 

少しずつまた気持ちが上向き、心にも余裕が出てきたある時、自分は今までインドを一面的にしか捉えていなかった事に気付いた。

インドはウザい・汚い。目に映るものを一面的に捉え、そのまま言葉に表現すればこうなってしまう。

それが、イライラしていた時の僕だった。

 

が、見方を変えればまた違ったインドが見えてくる。

 

■ ウザいについて

例えば電車内での例を挙げる。

僕は電車移動の際はいつも寝台列車を利用している。定員3人の座席に4人・5人とインド人が座っている事が多い。明らかに座席数以上のインド人が車内にいる。

IMG_4157

彼らは電車賃を払っているのかどうかも疑わしい。それでも平気な顔をして他人の席に座ってくる。座れない者は床に寝そべっている。

IMG_4158

日本ではあり得ない事だろう。

僕が寝台列車で移動する時は、それが面倒くさいので常に最上段の座席を買う事にしている。

最上段は梯子を使って登らないといけないので、インド人が登ってくる事はほとんど無いからだ。

 

ただ、もし僕の座席にインド人が座ってきたら、僕は「ここは僕がお金を出して買った座席だ」と主張しただろう。

なぜなら僕はそんなインド人達を「ウザい」と思ってしまうからだ。

 

でも見方を変えた時、そんな考えが自分の小ささを表している様で恥ずかしくなった。

「少ない資源をみんなでシェアする」という事なのではないか。

そう思った。

 

インドの人口は今12億人を突破し、近い将来には中国を抜き世界1位になると言われている。

そんなインドの列車利用者数に比べ、座席数は圧倒的に少ないだろう。

その少ない座席をみんなでシェアしている。あるいは床というスペースをシェアしている。

 

そう捉えて見ると、確かに他人が座ってきても喧嘩が始まる様な事は無い。

床に人が寝そべっていても、誰も文句も言わず、それが当たり前の様に振舞っている。

だれも気にしていない様に見えるのだ。

(ヒンドゥー語がわからないので実は文句を言っているのかもしれないが。)

 

ただ、日本であればそんな事をすれば車掌が来て、「他のお客様の迷惑になりますので」と言われて排除されるのが普通だろう。

でもインドでは車掌なんか来ないし来ても素通りするだけだという事を考えると、受け入れられているのだろうと考えられる。

 

インド人達が意識的にシェアをしているのかどうかはわからない。

宗教的・文化的背景から自然と彼らに染み付いているのかもしれない。

真相はわからないが、少なくとも「インド人はウザい」と切り捨ててしまうのは短絡的だった。

 

僕は経済的に恵まれているかもしれないが、心の面ではインド人達の方が豊かに思える面もあるのだと感じた。

 

■ 汚いについて

彼らは平気でゴミをそこら中に捨てるので、インドにはゴミが散乱している。

もちろんあまりの汚さに当初僕はこれを「道徳教育の問題だ。インド人の民度は低い」

と思っていた。同じ人間でも教育の違いでこうも変わってしまうのかと思ったりもした。

正直この点に関しては今でもそう思っている部分はある。

 

が、このゴミによって生かされている命もあるという事実も一方ではある。

例えば不可触民(アンタッチャブル)と呼ばれる人々がその代表例だ。

P1360717

最近ではインドの人口の4分の1が不可触民であると言われている。

日本の人口の倍以上、3億人近くの不可触民がいるのだ。

不可触民とはカースト制度の更に下に位置し、主に「穢れ」に関する職業に携わる者が不可触民とされ差別を受けてきた。

「穢れ」に関する職業の例としては、「清掃人」や「洗濯人」等である。

 

ここで単純な例を挙げる。

仮に街中にゴミ箱を設置し、インド人が皆ゴミをゴミ箱に捨てたとしよう。

すると、清掃業をしている不可触民の多くはその職業を失ってしまう事になる。

 

3億人の不可触民のうちのどれだけが清掃業をしているのかはわからないが、数十万あるいは数千万人にのぼるかもしれない人々が収入を失い路頭に迷う事になる。

彼らはインド人の捨てるゴミによって生活が成り立っている。

IMG_4208

だからといって、僕はゴミを捨てる事はやはり腑に落ちないし、カースト制度の無くなった現代においても不可触民達が人間以下の生活を強いられ差別を受けているという現状を根本的に改善しなければならないと思う。

 

これらの職業を放棄した者達もいるが、彼らは結局物乞いになる他無い。

物乞いに来た不可触民に対し、まるで動物を追い払う様に怒鳴りつけたり、僕に対し、あいつらは***だとひどい差別用語を言う事もある。

せっかく仲良くなったインド人でもそういう場面を見てしまうと、「あぁ、お前もか」と悲しくなる。

 

長い歴史の中でインドに深く根付いてしまった事なので、それを取り除く事は容易ではない。

カースト制度の生まれた歴史的背景を鑑みると、単に「民度が低い」と言う事も出来ない。

しかし結局は教育によって差別意識を無くし、不可触民とされている人達の地位を向上させるしかないのだろう。

 

「木を見て森を見ず」これではいけない。

僕が会計士の受験生時代に監査論の先生から何度も言われた言葉だ。

 

そこら中に散らばるゴミという「木」だけを見て「汚い」の一言で片付けてしまうのではなく、その奥に深く根付いた部分も含めた「森」まで考えていくと、また違った視点でインドを見る事が出来る。

 

他にも沢山あるが、挙げればキリが無いのでこの辺にしておく。

 

とにかく、このインドを含む南アジアの旅を通して、目の前で起きている事象に対して俯瞰的・多面的に捉えるという、当たり前の事に改めて気付いた。

 

最後にもし、インドは好きか?

と聞かれたら今の僕は「嫌いじゃない」と答える。

 

やっぱり3ヶ月は疲れた。

インドの本当の魅力に気付くのは、インドを去った後なのかもしれない。

Ryosuke Oka

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